ブックタイトル長岡の大花火 ’12 オフィシャルガイドブック

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概要

長岡の大花火 ’12 オフィシャルガイドブック

慶長五年天保十一年天保十二年わが国の花火のはじまり。オランダ人によって堺の港から輸入されたのが始まりと言われている。長岡藩10代牧野忠雅の時代に川越移封の命が下る。長岡大花火の発祥。川越移封の命が沙汰止みになり、それを祝って打ち上げた「合図」がはじまり。長岡城下で「草花火興業」が行われたと古い記録にある。明治十二年江戸時代明治時代大正六年二尺玉が登場する。9月に関東大震災が起こったためこの年は中止となり、花火は翌年へと持ち越しになった。6月の昭和天皇のご成婚にあたり祝賀行事として花火大会と仁和賀が盛大に行われる。正三尺玉が登場する。長岡花火のはじまり長岡での本格的な花火大会の開催。9 月14、15日の2日間、千手町八幡様の祭りに、遊郭関係者が花火350発を打ち上げたことが、最初の花火大会と伝えられている。明治十三年明治十六年明治四十年明治四十三年打ち上げ花火の寄付者の約9割が芸、娼妓で占められており、当時の花火大会は花柳界の力で出発した。宴会の余興や鎮守の祭礼などで花火が流行する。草生津堤防沿いに「さじき」が設置される。長岡煙火協会が設立される。明治時代大正時代大正十二年大正十三年大正十五年長岡大花火の歴史N A g A O K AO O H A N A B I N OR E K I S H IN A g A O K AO O H A N A B I N OR E K I S H IN A g A O K AO O H A N A B I N OR E K I S H I明治12年の片山翠谷日誌 日本の花火は、慶長5年(1600)オランダ人によって堺の港から輸入されたのがその始まりと言われています。また戦国時代の「炮術」の中の「合図」、つまり狼煙の技術が進歩し転化したものだとも言われています。天保11 年(1840)長岡藩の十代藩主牧野忠雅の時代に、川越移封の命がくだり、翌12 年それが沙汰止めになったのを祝って「合図」を打ち上げたことがありました。その後、この「合図」に各種の工夫が加えられて祭礼などで打ち上げられるようになりました。これが長岡花火の発祥とすることもできるでしょう。 長岡での本格的な花火大会は、明治12 年9 月14 日と15 日の二日間、千手八幡様の祭りで、長原などの遊郭関係者がお金を出しあって開催されたと伝えられています。場所は、長生橋下であることが知られています。翌13 年の煙火目録で、打ち上げ場所は、長生橋西字柳島であり、以降長岡の花火は常に長生橋下で上げられています。そして花火の種類は、三寸、四寸、五寸、七寸の四種で色も一色と単純なものでしたが、その後次第に技術を競う風潮が生まれ、玉の大きさも、尺玉、尺二寸玉の大玉が出現。さらには仕掛け花火や水中花火も見られるようになり、花火技術の向上と、新しい花火開発が進められました。明治40 年には、「諸珍舗永代帳」煙火協会のマーク昭和26年、嘉瀬誠次がつくり、打ち上げた戦後最初の正三尺玉昭和12年6月、県内の花火業者の集った時の記念写真市民の心を勇気づけた、フェニックス花火悠久山で遊ぶ長岡の芸妓草生津堤防沿いに「さじき」が設置され、また明治43 年には、長岡煙火協会が設立されて、長岡花火の基礎が確立されることとなりました。およそ30 年間も遊郭主体の花火大会が続いたのは、発端が水子供養と延命祈願であった事に由来すると言われています。2 2 2 1