ブックタイトル長岡の大花火 ’12 オフィシャルガイドブック

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概要

長岡の大花火 ’12 オフィシャルガイドブック

スターマインが登場する。これが全国的にみて比較的早く長岡に打ち上げられたのは、花火が盛んだったことによるものである。9月に上越線が全線開通する。これを記念して、昼夜にわたり盛大に余興として花火が打ち上げられた。長岡市観光協会を設立。打ち上げ日を雨が多い9月から8月5日、6日に変更し、観光協会の行事として行うこととなった。昭和時代(戦前)長岡花火が復活。戦争によって一面焼け野原になってしまった街から市民の心を勇気づけた。1日を「戦災殉難者の慰霊」の日とし、2、3日を「花火大会の日」と改める。「長岡まつり」と名称変更。戦後初の「正三尺玉」の打ち上げに成功する。昭和時代(戦後)昭和十三年昭和二十年昭和二十一年時局が戦争へと傾いていき、花火大会が中止となる。8月1日、長岡空襲。米軍のB29の爆撃を受けた長岡の街は、8割が焦土と化し、1482名が犠牲となった。「長岡市戦災復興祭」が開始される。昭和三十五年昭和四十五年昭和五十八年ベスビアス大スターマインが初登場する。北島三郎が歌う「長岡大花火音頭」が発売される。前年の片貝の三尺三寸玉に続き、世界初の三尺五寸玉の打ち上げが成功する。ロサンゼルスオリンピック、アメリカ独立記念日を記念して、姉妹都市であるフォートワース市で長岡花火を打ち上げ世界的に高い評価を受けた。10号早打80発のダイナミック花火が登場。8月4日に市制80周年を記念し、信濃川河畔を舞昭和五十九年昭和六十一年昭和六十二年台に冨田勲のシンセサイザーと長岡花火が共演する。大手大橋に仕掛けられるナイアガラ大瀑布が新たに誕生。正三尺玉の登場十号早打新名物誕生N A g A O K AO O H A N A B I N OR E K I S H IN A g A O K AO O H A N A B I N OR E K I S H I長岡大花火の歴史N A g A O K AO O H A N A B I N OR E K I S H I昭和二年昭和六年昭和十年昭和二十二年昭和二十三年昭和二十六年 昭和61年8月4日には、雄大な信濃川河畔を舞台として、冨田勲氏のシンセサイザーと長岡花火が共演した、市制施行80周年記念事業「光と音の祭典」が国内初の野外コンサートとして開催され、大成功を収めました。中でも、市制80周年を記念して打ち上げたワイドスクリーン方式による十号早打八十発のダイナミック花火は、大喝采を浴び、現在は「米百俵花火・尺玉百発」として名物花火のひとつとなっています。 さらに、昭和62年から大手大橋に仕掛けられる花火「ナイアガラ」が新たに登場。平成元年から、このナイアガラを大型花火打ち上げの幕開けとしました。昼の相図「長岡懐旧雑誌」水島爾保布が描いた信濃川の花火長生橋に仕掛けたナイアガラ三尺五寸玉の木型をつくる。冨田勲と長岡花火の共演 大正末期から昭和初期にかけては長岡花火の一大発展期で、全国的にも知られるようになります。番組数五百、打ち上げ数も二千数百発を数えました。昭和10年には、長岡市観光協会の設立を機会に、打ち上げ日を雨の多い9月を避けて8月5日、6日に変更し、観光協会の行事として行うことに決定しました。しかし昭和12年を境に急速に戦争へと傾き、翌昭和13年には花火大会は中止されてそのまま終戦を迎えてしまいます。 戦後の長岡花火は、昭和22年8月1日、2日「長岡市戦災復興祭」の名のもとで復活します。昭和23年からは8月1日を戦災殉難者の霊を慰めることに重きをおくこととし、花火は2日、3日に変更、 大正に入ると煙火協会の組織も大きくなって花火大会も全市的な催しとなり、玉の大きさも大正6年に二尺玉、大正15年にはついに正三尺玉が登場、人々の度肝を抜きました。さらに26年からは『長岡まつり』と名称を改めると同時に正三尺玉の打ち上げが復活しました。以来戦後の長岡復興の象徴として再出発した長岡花火は、市勢の発展とともに、名実ともに日本一の歩みをつづけています。2 4 2 3