ブックタイトル長岡の大花火 ’12 オフィシャルガイドブック

ページ
31/86

このページは 長岡の大花火 ’12 オフィシャルガイドブック の電子ブックに掲載されている31ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

長岡の大花火 ’12 オフィシャルガイドブック

嘉瀬誠次S e i j i K a s eかせせいじ/大正11年生まれ、90歳。祖父の代から続く長岡の花火師。14歳で父に師事し、花火師の道へ入る。昭和26年、父とともに長岡まつりで、戦後初の正三尺玉の復活を果たす。昭和28年から始まった長生橋のナイアガラの花火など、長岡の名物花火を数々生み出し、海外に招かれての打ち上げ経験も多数。平成18年に正三尺玉を2連発で打ち上げ、自身の「最後の花火」とした。嘉瀬煙火工業有限会社戦地の火薬の爆発力を静かにきれいに開く花火へと変えて―今年90歳になられましたが、長岡まつりの花火を一身に引き受けてこられたそうですね。 花火屋に生まれて、14歳から親父に言われるとおりに作って、いい花火を上げようと一生懸命やってきました。昭和18年には、戦地に行き、人馬を殺傷する火薬の爆発力で、悲惨な戦いを経験しました。きれいに静かに開く花火の爆発力とは全く違いましてね。たくさんの戦友たちが亡くなりました。国のために倒れていった立派な戦友たちのことは、今も鮮明に思い出します。無事に帰ってきたのだから爆弾ではなく、人々を楽しませる花火を作ろうという気持ちが湧いてきました。花火をきれいだと思う瞬間は、口をぽか?んと開けて、人は無我の境地になります。理屈抜きに、人は争ってはいけない、手を携えて、助け合って生きていこう、一緒に楽しもうという、人間本来の心に返るのではないでしょうか。―世界中で花火を打ち上げられましたが、心に残る花火は? ロサンゼルス、シアトル、ニューオーリンズ、ニューヨーク、ブラジル、ヨーロッパでも打ち上げましたが、一番は、ロシアのアムール川で上げた花火です。私は戦争の時、千島列島で防衛をし、終戦後は3年間、シベリアで強制労働をしました。戦友が栄養失調で大勢亡くなりました。だから、私はロシアに対して、いつか戦友のかたきをとってやろうと思っていました。ところが、60歳を過ぎた頃から、ロシアも当時、食べ物がなかったこと、ロシア人も私と同じように、国の命令で戦ったのだという風に思えるようになりました。シベリアで亡くなった戦友の名誉と慰霊のために花火を打ち上げたいという私の思いが、人々に伝わり、平成2年に実現しました。30万人もの観客が集まり、その後、ロシアの人たちが私の家に何度も来てくれました。―最後に、若手の花火師さんたちに一言お願いします。 それは、恐縮だなぁ。私は第一線を退いていますから、「花火は日進月歩するので、どうか気をつけて立派なものを上げてください」と、「陰ながらお願いしますよ」という、ささやかな気持ちです。漆黒の夜空に開く一瞬の花花火師はその一瞬にすべてをかける観客は、すべてを忘れて花火とひとつになる花火には永遠という言葉がふさわしい花火師の心意気2 8 2 7