ブックタイトル長岡の大花火 ’12 オフィシャルガイドブック

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概要

長岡の大花火 ’12 オフィシャルガイドブック

 鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争は、関東から北海道にまで波及し、1年5か月にわたる大内乱となりました。とりわけ長岡藩は、北越最強の敵と新政府軍からマークされていました。 長岡藩軍事総督河井継之助は、新政府軍と旧幕府軍の間にあって、平和裡に事態を収拾する意図でした。長岡藩は大軍を率いた新政府軍と激戦をくり返し、一度は長岡城を奪回しましたが、長岡勢が城をもちこたえたのは4日に過ぎず、 長岡の町は焦土と化しました。蒼柴神社脇の招魂社には、この戦いで散った軍事総督河井継之助をはじめとする藩士たちの霊がまつられています。 2004年10月23日午後5時56分頃、「ゴー」という激しい音とともに、建物全体が持ち上げられるような激しい揺れが、新潟県中越地方を中心に発生。川口地域(当時北魚沼郡川口町)で震度7、小千谷市で震度6強を観測し、住み慣れた家、見慣れた土地、美しい自然が一瞬にして姿を変えました。長岡市内で建物2197棟が全壊するなど県内で12 万1604棟が損壊し、避難者は一時10万人を超えました。鉄道では、上越新幹線「とき325号」が脱線したほか、線路や橋脚が破壊されるなどの被害が発生しました。また、北陸自動車道や関越自動車道などの高速道路、国道17号などの多くの一般国道、県道や生活道路も亀裂や陥没、土砂崩れ・崖崩れによって寸断されました。23日には震度4以上の余震を25回観測し、死傷者が四千人を超える大惨事となりました。 2004年7月12日から18日にかけて、激しい雨が降り続き、栃尾地域(当時栃尾市)では総雨量が400ミリを超す記録的な雨量を観測しました。この豪雨により、県内では信濃川水系の五十嵐川や刈谷田川、中之島川の堤防11か所が決壊し、長岡市、見附市など、広範囲で浸水被害が発生しました。広大な平地が浸水したため、避難所となった施設までもが浸水し避難者が孤立するという事態も起こりました。氾濫した河川水や土砂崩れなどにより、死者15名、重軽傷者82名、損壊家屋5810棟、床上・床下浸水約8079棟もの被害を出しました。私たちは一人じゃないひとつになった心に大きな勇気を。10・23中越大震災 昭和20年8月1日アメリカのB29爆撃機は、長岡市上空に達して大量の焼夷弾を投下しました。長岡市には夜9時06分、警戒警報が発令され、10時26分に空襲警報に切り替えられました。B29による焼夷弾の投下はその直後に始まり、市街地の80%が焼失、1482名が犠牲になりました。市内表町一丁目の平潟神社では、避難していた数多くの人々が犠牲になりました。犠牲者たちを偲び、神社には後に「長岡市戦災殉難者慰霊塔」が建立されました。2 0 0 4 年1 0 月2 3 日北越戊辰戦争慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年)7・13水害2 0 0 4 年7 月1 3 日長岡空襲1 9 4 5 年8 月1 日今こそ届けよう感謝と勇気!戦争・災害の歴史1新潟県長岡市は戦災と災害の歴史と言っても過言ではありません。北越戊辰戦争・長岡空襲では戦火にみまわれ、2004年には震度7の地震が襲いました。しかしその度に皆様からの温かいご支援と不撓不屈の精神で長岡市は立ち上がってきました。このページでは長岡市の復興への歩みを振り返っていきます。今こそ届けよう!感謝と勇気!長岡市復興へのあゆみ写真提供/新潟県、長岡市、北陸地方整備局、(社)中越防災安全推進機構3 6 3 5