ブックタイトル長岡の大花火 ’12 オフィシャルガイドブック

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概要

長岡の大花火 ’12 オフィシャルガイドブック

長岡花火のフィナーレを飾るフェニックス。初年度は、番外編の花火でした。「世界一の花火を!復興祈願のシンボルを!」と、フェニックス花火打上実行委員会が呼びかけを始めたのは、中越大震災から半年あまりのこと。「地震の復旧で大変な時に、何が花火だ」という反発もありました。実行委員の多くは、(社)長岡青年会議所のメンバーで、「あそこのせがれはバカだ。この大変な時に、何を花火、花火と騒いでいるんだ」と非難されました。周囲から「花火バカ」と呼ばれた日々。当時を振り返って、フェニックス部会長の石田章氏は語ります。協賛金を集める私たちも、かなり強引でした。あちこちの会合に顔を出しては、花火の協賛金を募るので、何度もお金を出して下さった方もおられました。しかし、この花火のおかげで、中越から魚沼、県の観光課も巻き込んで、ネットワークが広がりました。「花火にお金を使うくらいなら、具体的な復興に使った方がいい」と最初は番外編の花火!?平成の米百俵物語復興祈願花火「フェニックス」(2007)復興祈願花火「フェニックス」(2006)打ち上げ箇所の数が増えて、花火の重なり具合が美しいバランスです。長岡まつりのフィナーレを飾る花火となり、名前も広まっていきました。打ち上げ箇所の数を初年度に戻しました。打ち上げる位置の間隔を広げると、花火は重ならず、ひとつ一つがはっきりと見えます。200520062007初代から今年で8回目となるフェニックス。歴代のフェニックスをご紹介。震災復興祈願花火「フェニックス」フェニックス花火が誕生した記念すべき年。被災者の方たちは仮設住まいをしていましたが、花火の美しさに勇気づけられたことでしょう。2007年と打ち上げ箇所や、打ち上げ幅は、変化していませんが、打ち上げる花火は変化しています。地震のことも少しずつ忘れられて…。復興祈願花火「フェニックス」(2008)200820092010フェニックス物語P h o e n i xS T O R Y感動の花火2009年と同じ打ち上げ幅で、二尺玉が前年よりも多く6発入りました。2日間で色も違い、名前も「ニューフェニックス」に。15箇所打ち上げ:幅2.8㎞ 高さ700m 総火薬量約1t6箇所打ち上げ:幅1.7㎞ 高さ500m 総火薬量約1t6箇所打ち上げ:幅1.7㎞ 高さ500m 総火薬量約1t10箇所打ち上げ:幅1.7㎞ 高さ500m 総火薬量約1t6箇所打ち上げ:幅1.6㎞ 高さ500m 総火薬量約1t15箇所打ち上げ:幅2.7㎞ 高さ700m 総火薬量約1tニューフェニックス(2010)打ち上げ箇所の数も増えて、打ち上げ幅も一気にワイドになりました。二尺玉を3発入れて、名前も「スーパーフェニックス」に。スーパーフェニックス(2009)感動のサプライズいう批判も多かったのですが、こんな時だからこそ「夢を!復興への思いを花火に託そう」と思った人たちも、数多くいました。フェニックス花火のことは話題になりましたが、どんな花火かは、よく分からない状態で、2005年8月2日の一日目を迎えました。最後に、今までにないスケールの花火が地震からの復興祈願として、打ち上げられたとき、観客は体中が感動で満たされ、心には、生きる勇気と希望が湧いてきました。次の日、「フェニックスは凄かった」という噂を聞きつけた人々が、ひと目フェニックス花火を見ようと河川敷にあふれかえりました。だから、最初のフェニックスを見た人は意外に少なくて、二日目のフェニックスを見た人の方が圧倒的に多いとか。翌年の2006年から、フェニックスは堂々のフィナーレを飾るようになりました。「花火バカ」と呼ばれてもくじけなかった人々。平成の米百俵スピリッツと言ったら、言い過ぎかもしれないけれど、彼らの熱い思いがなければ、フェニックス花火は誕生しなかったのです。4 6 4 5